86歳、やっとひとり ~ 母の「サ高住」ゆるやか一人暮らし ~

「何も起きないのが何より」の母のたよりと、「おひとりさまシニア予備軍」(=私と妹)の付かず離れずの日乗。

#4 プロジェクト始動

【ここまでの展開】

「最期は(故郷)〇〇山の見えるホームで暮らすの💗 」 60代前半から”終の棲家”プランを持っていた母からついに号令が下った。2019GWに「ホーム見学ツアー」を決行すると言う。



我が家の仕事は早い。


今回のクライアントである母の号令さえ確認できれば、
私と妹は”あうんの呼吸”で互いの役割に動き出す。
こうしてGWの「老人ホーム見学ツアー計画」が始動した。



プロジェクトリーダーは母と同居している私の妹。
母の妹であるリュウコばちゃんが集めてくれた
資料の中から候補を選び、紹介機関 
https://www.roujinhome-zenkokunet.jp/
を通じて見学のアポを入れる。
私はサブとして、旅行中のホテルと食事する店の手配。


そして母へのプレゼン。承認が出れば即実施だ。


ちょっと、簡単すぎるんじゃないか!?


もちろんその間に全員が勉強もし、
先達として最近親をホームに入れた友人に
ヒアリングの機会も持った。


でも、そんなことが問題なのではない。
不動産屋さんがよく言うところの、
「決める人」と「決められない人」。
我が家は全員、圧倒的に「決める人」なのだ。


とは言うものの、すべてが予定通りとはいかなかった。
ここで一人、「決められなかった」プロジェクトメンバー、
”リュウコばちゃん”について書こうと思う。

#3 インフルエンサー

母の頭に”終活プラン”のイメージが
降りてきた瞬間を、よく憶えている。


私が当時一緒にワインを飲み歩いていた
年上の友人の翻訳家女性が、
出版社からの依頼で
自身について書いた本を出した。


母上の自宅売却に伴って実家を出ることになり
50代にして自由な一人暮らしを謳歌する。
今から思えばまさに
「大人のおひとりさまエッセイ」
の先駆けとも言える、
颯爽とお洒落なエッセイだった。


その中で、母上はある日
「ここにお座りなさい」と友人に言うと、
自分はこの家を売って
そのお金でホームに入るから、
あなたはここを出て好きなようにしなさい。
そう申し渡したという。


相談でもなければ、要望でもない。
すべてはもう決めた事。


母上にとっては「報告」。
そして同居していた娘への「号令」
といったところか。


さて、その話を我が母にしたところ、
「お見事!私も最後はそうしよう。」
強く言い切ったのが60代前半だった。


以来ことあるごとに
「私もOさんのお母さんのように」
を繰り返し。いつしか
「最後は○○山が見えるホームで暮らすの」
とビジュアル付きで、“自分事”に昇華させていた。


そして見事な“有言実行”。


私は母にインスピレーションを与えてくれた友人と
ロールモデルたる母上に感謝を込めて、
このブログのタイトルを、友人のエッセイからの
オマージュにさせて頂くことにした。


#2 母の号令


「今年のGWに、ホームの見学に行こうと思うの。
手配してくれる?」


「りょうかい~」


母の号令が掛ったのが去年のお正月。


60代の頃から、
老後は故郷の山を眺める老人ホームに入る。
そう言われ続けてきたので、
私も妹もいつでも二つ返事の体だった。


さらに一年ほど前からは、紹介機関 
https://www.roujinhome-zenkokunet.jp/
から資料まで取り寄せているので、
あとはスイッチを押すだけの状態でもあった。




実は最初にアクションを起こしたのは叔母だった。
母の三つ違いの妹の「リュウコばちゃん」。
生涯独身の彼女は、70代後半まで働きながら、
私生活では趣味のダンスや旅行に
ジム通いと友人も多く、
まさに自由な「おひとりさま」の大先輩だ。
いずれは故郷のN県に終の棲家をと
移住計画にも余念なく、
情報集めや資料を取り寄せてくれたのも
彼女だった。


母は自分の信念に加え、
そんな心強い助っ人からの話も手伝って、
ここ数年かけて移住イメージを
具体化させていたのだろう。
「東京2020、オリンピックが始まる前に
早めにパパの七回忌を済ませましょう。
それで私の仕事は終わるから
心置きなくホームに行くわ」
と、移住へのマイルストーンも明確だった。


まさに後はボタンを押すだけ、
兵隊である私と妹に指令を下すだけだった。